
【要約】
こちらの記事は『売上2500億円超、従業員1万5000名に成長しても危機感 稲盛和夫は京セラ幹部に「3時間22分」かけて何を力説したか?』の要約です。
● 第二電電(現KDDI)誕生までの流れ
- 1981年〜82年の土光臨調が通信自由化を提言したことを契機に、稲盛は通信事業への参入を検討。
- 「動機善なりや、私心なかりしか」と半年間自問し続け、参入を決意。
- 1983年、京セラの内部留保1500億円のうち1000億円を投じる決断を役員会で示す。
- 同年、講演会で電電公社の千本倖生と出会い、構想を本格化。
- 1984年、日本経済新聞が第二電電設立をスクープし、計画が表面化した。
● 稲盛は通信構想をもっと早くから温めていた?
- 1982年1月の経営方針発表では、異例の「3時間22分」も語り続け、新しい大計画に向けた不屈の精神を強調。
- その背景には、既存事業の延長ではない飛躍的な成長を生む新規分野への挑戦──すなわち通信事業があったと読み取れる。
- 1984年の「売上1兆円企業」という中長期目標も、通信事業の成功を見据えていた可能性が高い。
● 周到な準備と構想力
- 1984年には第二電電だけでなく、京都賞のための稲盛財団、盛和塾の本格始動も並行して進めるなど、稲盛の事業はすべて長期的準備に基づいていた。
- 「考えよ」と自らに課し続けた稲盛は、未来を見据えて不断に構想を練り続けていた。
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【所感】
・先の未来を考える思考と熱意をもって取り組む姿勢は起業家や経営層にとってなくてはならないものだと感じた。
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